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2005年9月

2005.09.30

一太郎訴訟ジャスト社逆転勝訴(共同通信)

 この判決は、前判決を下した裁判官がやたらと画期的な判断を下す人だっただけに、納得できる。それに変な話だがマークの違いだけで機能の大本であるMSは訴えない、ジャストシステムは訴えるというねじれた訴訟だったので、これで決着すると良いが。

 家電のソフトはパソコンソフトよりも完成度を上げざる得ない。家電がバグで動かなくなると言ったことになるとパソコンに比べて対処がしにくい上に、範囲が広範囲で大変になる。その上ノウハウをさらしたくない等の事情でプラットフォームもバラバラだし、金がものすごくかかって、実はコストの押し上げ要因になっている。こういったところで知財から押さえていこうとしたのだろうがこじつけが過ぎたような気がする。

 Windows95が出た、訴えるなら10年前に訴えるべきだった。

リンク: @nifty:NEWS@nifty:一太郎訴訟ジャスト社逆転勝訴(共同通信).

2005.09.20

知りたい猿田彦と天狗の差

 このブログでは初めて安史和尚の文を載せたり、個人的都合で妖怪関連の記事が多くなると思うが申し訳ない。(秋の新作アニメ「ガイキング」や「Mr.インクレディブル」のDVDでのプレイバック、「響鬼」の総括など色々語りたい事もあるのだが時間がない)

 さて、「渡り番頭 鏡善太郎の推理Ⅲ」〜神々の里・高千穂 燃える夜神楽殺人事件〜と言うTVドラマがあった。私は再放送でお目に掛かった。

 この番組をなぜで語るのか。実は話は大したことはないし、いかにも2時間サスペンスドラマらしい、私が嫌いな方の話だが、トリックを探し当てる課程で妖怪が絡んでいるからだ。ネタバレをしないと説明出来ないので諦めて欲しい。

 このドラマの中で犯人が殺人を犯すときに正体を隠すために扮装をするのだが、それが神楽の猿田彦なのだが、神楽を愛するが故に(高千穂の人が総意として神楽を愛しているのは事実だろうが、そこまで愛してる人ばかりというのは、もの凄いステレオタイプな設定)猿田彦の面が使えず代わりの天狗の面を使うのだ。正直言って普通の人は区別が付かない(笑)というのはどちらも赤く、ピノキオのような鼻で、剛毛の髭が蓄えられている。

 それを渡り番頭(各地を渡り歩いて番頭をしている)の加賀丈二が来たばっかりなのにすぐに見抜いてしまうのだ。地元の神楽を愛する警官などが全然気が付かないのに。

 いけないいけない、最近ゆるいシナリオを許容出来なくなってるな。

 まあ話の筋は置いておこう。とにかくこの天狗の面、修験者の帽子を被っているわけでもなく、顔の造作の細かな違いだけで、天狗か猿田彦か見分けねばならない。しかも暗闇で(^^;、分かったのは奇跡的なのだが、それほど似ている。

 似ていると言うよりおそらく天狗の姿は猿田彦から来ているのだろう。ちゃんと調べなくては分からないものの高千穂だけでなく伊勢神宮とも結びつきが高いあの姿の猿田彦が、天狗の姿にスライドするようになるプロセスは興味深い。天狗が本来姿のない怪異でありながら、次第に修験者姿やクチバシのあるモノを取り込みながら、赤く高い鼻を持つ顔を定番にしていったのは、誰かがまとめたからだろうか。

 神楽の面や天狗の面を検索してみた。

 URL= http://shizuoka.ais4u.jp/omenya/kagura.html
 URL= http://shizuoka.ais4u.jp/omenya/ka3.html
 URL= http://www.taishogift.jp/shohin/men_k-05.html

 この辺を見てもらえば分かるが、髭の有無は実は決定的でなく両方とも合ったり無かったりしている。渡り番頭が暗闇でも見分けが付くにはそれなりの意匠の違いがあると思うが番組中ではそこに言及がなかったので、ついぞ何が違うのか分からずじまいだ。

 で、脈絡がないのだが、その違いを教えて欲しい(笑)私が顔を振ったその瞬間にドラマの中で区別があったのかも知れないが、どうにもこうにもなぜ見分けられたのかが気になって今日まで来ているのだ。

 詳しい人お願いします。

2005.09.17

書評『妖怪文藝』巻之壱、巻之二

 安史和尚が記す。

 「幻想文学」や「幽」の編者、東雅夫<ひがしまさお>の新しい試み「妖怪文芸」が8月から刊行され、9月までで巻之二(全三巻予定)まで出ている。新しい試みというのは、まず、中身は雑誌的なのだが小学館文庫で発刊されていること。(実は文庫は造るのが大変なので、コストを下げにくい。そういう点もチャレンジ・・・あら、小学館文庫ってば上もしたも断裁にかけてるのか、それはまた金がかかること。)また、散逸的単発的な妖怪題材の読み物を編んで、まとめようとすることだ。各巻、違った視点で特集が組まれており(『シバリ』だそうだ)、趣味ながら本作りをする楽しみを持つ自分たちに、非常に強いインパクトを与えてくれる仕上がりになっている。

 巻之壱「モノノケ大合戦」は東と京極夏彦の対談の再録からはじまり、妖怪同士の戦い(とはいえ緩い戦いが多いのだが)に焦点を当てている。この本は対象読者も絞り込まれているが、実は明示的に謳っていないものの「モノノケ大合戦」というのは鏡に映したテーマがある。それは「妖怪大戦争」だ。「妖怪」--->「モノノケ」、「大戦争」--->「大合戦」らしい。

 見てみれば「モノノケ大合戦」特集に出てくる妖怪はそうでもないが、妖怪単体にフィーチャーした後半に目を向けると、件<くだん>、川姫、小豆洗い、天狗、ぬらりひょん、カラカサ、砂かけ婆、ろくろ首、雪女、猩々、豆腐小僧と「妖怪大戦争」で目に付く役どころにいたモノばかりだ。特に川姫と猩々には作為を感じざるを得ない。

 ただし、「妖怪大戦争」とはまた違った切り口で楽しめる。

 巻之二「響き交わす鬼」は何となく分かるというものだが、東曰く、"これ(二十九之巻)までの響鬼を愛する皆様には、本書で「仮面ライダー響鬼」という稀有なる作品の素晴らしさを、その懐の深さを、いささかなりと再確認していただけたら幸いに存じます。"(幻妖ブックブログ 2005.09.05 より引用 <http://blog.bk1.co.jp/genyo/>)ということで、まさか東雅夫がと言う感じなのだが、そういうことなのだ。これは嬉しい反面、私とJa-bowでブログでやろうと思っていた「妖怪と魔化魍の接点を探る」ネタをプロの、しかも信頼出来る人がやったという点で、かなり「やられた」感が強い一冊になっている。

 土蜘蛛、山彦、蟹、一反木綿、大蟻(ただし日本での話でない。ゴジラの香山滋によるホラー。)、オトロシ(この項にはアミキリやバケガニへの言及もある。)、ヌリカベ(この話は反則だと思うが、面白かった)、産女と成っている。河童、天狗は巻之壱でやったし(笑)泥田坊はこれこそ伝承がないので仕方がない。大首は番組内では動いていないので割愛されたのかこれも伝承がないのか・・・。何よりも間違いないのは表紙が太鼓を叩く赤鬼だってことだ。(構図は火星大王の箱絵のパロディか?)特集での鬼への言及も非常にツボを心得ていて、さすがだというか、そんなところから持ってくるんですかと言いたくなるものが多くて白眉だ。

 また、冒頭の対談は司会の東が暴走気味に「響鬼」を語るし、加門七海と霜島ケイは単なるミーハーおばちゃんだし。しかし、同感同感とうなずくところばかりで、これだけでもお腹いっぱいだ。

 と言うわけで妖怪好きにはお勧めの2冊になっている。

 最終の巻之三は予告では「魑魅魍魎列島」。「金融腐蝕列島」を思い出しちゃったんだが、おそらく何らかの「シバリ」があるのだろう。10月頭に刊行予定だ。

 今年は映画で3本、妖怪に関わりのあるモノが掛かったし、それに合わせて書籍も相当数出た(鳥山石燕の『画図百鬼夜行』が文庫で出るなどすばらしい。)ので、妖怪好きには嬉しい悲鳴だが、来年の劇場実写版「ゲゲゲの鬼太郎」の公開に合わせて、各出版社がまだまだ力を入れてくれると嬉しいのだが。かく言う私も財布の紐も緩みがちで、なかなかしんどい。これはきっと妖怪「さんざい」の所為に相違ない。と夢心地に思う。

・妖怪文藝 巻之壱 モノノケ大合戦 小学館 ISBN:4094028374
・妖怪文藝 巻之二 響き交わす鬼  小学館 ISBN:4094028382

(了)

2005.09.04

仮面ライダー響鬼ごっこ 三十之巻 鍛える予感

 私にとっての「仮面ライダー響鬼」は二十九之巻までで終わりました。

 プロデューサー(主な原因)と脚本(その次の原因)が変更になり、今後には全く期待が持てなくなったからです。その実際の理由は分かりませんが、これでまた高寺プロデューサーには当分チャンスが与えられないでしょう。

 とはいえ、これほど二人の絡んだものと私が相性が悪いとは、見るまでは分かりませんでしたけどね。

 中身に関しては、もう全く語るところがないのです。ちょっと変わったことをやったり、極端な表裏を持つキャラクターを出したり、意味もなく挑戦的で目を合わせれば暴れてる頭のおかしくなった人物を出しイザコザで話を進めていれば良いというような発想しかできない連中の話は見たくないのです。

 下らない冗談を見聞きしているように面白くない。

 映画に関してはテレビ版が高寺さんで続くならダメ出しする意味もあったかもしれないのですが、これでは全くダメです。

 井上敏樹の脚本が一本一本なら面白いという人がいます。確かに彼はギャグマンガやバラエティのようなモノを書かすなら、ああいった投げっぱなしスタイルの話でも良いんだけど、1年間消費した後に何も残らないし、そもそもがどっかで見た良いシーンをパッチワークでつなげてるだけなので、そのシーンに深みが全く無いし酷いときは単純にパクリにしか見えない。これで喜ぶのは哀しいシーンに出会うと反射的に泣ける芸を持っている柴田理恵のような人ばかりじゃないのかなぁなどとネガティブな発想ばかりがわいてきます。

 白倉プロデューサーは予算の計算などが上手く、上手くまとめ上げたり、おそらく人当たりもかなり良いのではないかと思うのです。そうでなくては予算管理しながらそこそこに仕上げるなんてのは出来ないですからね。

 個々人はきっといい人なんですよ。ただその作る作品が私に合わないだけ・・・単にそれでは私が求めてるモノは、結局出てこないのではと思います。彼のヒーロー論はなんだかねじ曲がっていると言うか、これ以上流布しては行けない思想にまみれてるような気がします。

 今後、奇跡でも起きなければ「仮面ライダー響鬼」の感想は書かないつもりです。

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