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2005年10月

2005.10.22

「妖怪文藝」巻之三 インプレッション

 妖怪文藝巻之三を読んだ。巻之壱、巻之二(2や3に弐や参を使わなかった理由は聞いてみたいなぁ。)は安史和尚が感想を書いたので割愛しよう。今回はディテールや雰囲気よりも個々の作品にハッとする物が多かったような気がする。ではJa-bowはJa-bowスタイルで。

>>「谷地の魔神が自ら歌った謡『ハリツ クンナ』」知里幸恵編訳

 自ら退治されたモノが語るという、逆転の発想。謡なので実際は原語の発音で理解出来ることがベターなのだが、その中身だけでもかなりググッと来た。

「魑魅魍魎」石上玄一郎

 そして一押しはこの「魑魅魍魎」。あらすじを読めば「はい、そうでしたか」で済むような話だったが、後半荒天になってからの百物語前後の風景描写がすばらしい。話の畳み方も個人的には意表をついた仕舞い方で、やられたと思った。

「屋台の客」東郷隆

 以前知り合いにNHKアーカイブスの新日本紀行だかを見せられた。うっそうとした林の絵を見ているときに、

 「(ここなら妖怪は)居るよね」

と言われたのを思い出した。今も実家の傍ならまだかろうじて妖怪は出ると思う。今の住まいの傍は都会の近辺にもかかわらず田舎風景なのだが、街灯が完璧な所為か気配はない。しかし、この話を見ているとまだ鎌倉、湘南あたりには出そうだなと思った。(西岸良平の『鎌倉物語』の様なことはないだろうが。)女将のハキハキした感じがリアルであり、だからこそ居る感じが非常に強い。(ただ、大雪の日は出そうな気配があるけどな。)

「幽霊と化けもの」小泉八雲/平井呈一訳

 小泉八雲はまごうことなき妖怪小説の第一人者だが、このスタイルのモノは初めて見た。非常に面白い。特に最後の話はありそうな人情モノベースの怪談だが、まさしく「身につまされた。」

「風の神」内田百けん

 こういう話をさらりと書いてしまうのだから、やはり百けんは凄い。連れてくるのは確かに怖いが、「小豆とぎ」(まぁ今回、狸だが)が着いてくるとは思わなんだ。ショキショキ。

「南と北」火野葦平

 3通目あたりで間違いなく目論見が分かるわけだが、それは失敗ではなく、仕掛け通りなのだろう。妖怪だけでなくこれもまた別な意味で身につまされる話だった。意思疎通って大変。

「日本漂流」小松左京

 小松左京の妖怪譚はこれで読むのは2作目。「件」は少しホラーテイスト、今回のモノはSFっぽい感じ。何かを思い出したが何かは内緒。

「鵺」白洲正子

 鵺の幽霊を描くというのは「谷地の魔神」と通じるモノがある。だが、坊さんに成仏させるというのはどういう意図があったのだろうと思った。

「ノツゴ」水木しげる

 小説でも確実に水木節だ。最後のオチも水木っぽいが良い感じである。ノツゴというとひだる神と同一視していたのだが少し考えを改めた。ただ・・・。

 巻之三でネタが切れないか心配した。(一部、反則があるのだが、そこまで目くじらたてないのも妖怪の良いところ)が、むしろシバリがないために、「優良な作品がまだまだある。」というか、妖怪文学はある意味日本文学の主流にあったのだと再認識した。

 自分は妖怪モノを書いたことがないが、妖怪小説を今度、安史にたきつけてみようっと。

2005.10.17

「妖怪大戦争」(2005)インストラクションガイド

 映画を見てから赤飯を食べることが多くなった。もともと好物ではあるのだが、意識して食べるようになった気がする。

 いきなり横道にそれてしまうが「妖怪」と聞いて思い出すのはなんと言っても水木しげる、それも「鬼太郎」を思い浮かべる人が大半じゃないだろうか。かくいう私も妖怪のビジュアルは数々有る事を知っていながら、水木しげるの絵が邪魔をする。他に誰もが思い出しそうなモノというのは何だろう?漫画なら「ドロロンえん魔くん」「地獄先生ぬーべー」(これはちょっと)「うしおととら」(傑作だとは思うが伝承という点ではどうかなぁ。)「犬夜叉」(妖怪モノだったのだよな。)・・・最近ならば「もっけ」(新鮮な切り口が興味深い佳作。)「でろでろ」(妖怪の心意気がよく分かるギャグマンガ。)「おとぎ奉り」あたりが新機軸で面白い・・・それらを押しのけて「鬼太郎」が来る。他のも面白いが、水木しげるほどの腰を据えたインパクトはあるまい。そう言う意味で長らく新たな妖怪ビジュアルには渇望していた。そこに現れたのが私にとっては映画「妖怪大戦争」だったのだ。

 さて、本題だ。「妖怪大戦争」をお笑い映画としてとらえた人は側面の或るとらえ方として正しい。自分が言うのも何だが、楽しんで貰えて本当に良かった。逆に普通の「ホラー」を求めていた人には本当に気の毒なことだった。まぁ「着信アリ」を撮った監督だから仕方がないのかも知れないが、それも「ギャグ」としての十分な宣伝をしていたので免責されるだろう。それに好きな自分が言ってしまうのはどうかと思うが、この映画は、特に「映画」と言う点に関しては、本当にB級以下だ。他のblogを見ても脚本に文句を付けている人が多いが、意見はもう「本当に間違いない」と私も同意する(笑)しかし、この映画では「話」は極端に酷くなければ、あまり意味が無いのだ。だから、それを越えて楽しめなかった人には悪いが、やはり「合わない」ものだったのだろう。諦めてもらうしかない。妖怪は無理矢理見るモノだが、無理矢理「妖怪」映画を理解する必要はないと思うし、私にも合わないモノはいっぱいあるのだから、それは了解できる話だ。

 だが、ここではたと、「そこで説得を諦めては『妖怪復権』は望めないのではないのか?いや楽しみを分かち合うことは出来ないのではないか?」そう思い直した。「もう少し分かって貰う工夫をファンはしなくて良いのか?今年だけで終わらせず楽しい祭りを続けて行くにはどうしたらいいのかと考えたのだ。」そのための記事がこれだ。

 この映画、お笑い映画として楽しめないのであれば、出てくる妖怪の「設定」や主人公の「稲生<いのう>」タダシ、最重要キーワード(笑)「小豆」飯位のことくらいは分かっていないと、ちょっと辛い。一般ファミリー向けの映画なのに、なぜかこれらを知っているモノとして、映画は進み、明示的に説明されないから、最後までこの意味が分からない事態に陥るのだ。ただの「大人」では置いてきぼりにされる。或る意味、敷居の高い映画なのだ。普通はそういうのは「悪い映画」として切って捨てるべきだろう。或いはカルト映画だ。しかし、ファミリー向けなのに、むしろそのくらい置いていく方が「分かってる」人にはうれしさと楽しさを提供する仕組みになっているのだ。

 それを少しばかりあちらの世界に踏み出して貰って、楽しみを共有しようと言うわけなのだが・・・。以下のことは「分かっている」人にはワザワザ書くことを、はばかられるような内容だ。「無粋なヤツめ。」とお叱りを受けそうな内容なのだ。しかし、あえて書こう。誰かがそういうネタを提供しなくてはいけない。自分のツボを紹介しながら解説することでインストラクションガイドとしたい。内容は大まかに、

・稲生タダシの秘密。
・魔除けの小豆。
・本物と偽物の区別。
・件で始まり麒麟で終わる。

である。

・稲生タダシの秘密。

 さて、まず主人公、稲生タダシの秘密から。演じる神木隆之介(『仮面ライダーアギト』で『神』の幼年体を演じていた少年がもうこんなに成長したのね。)は装飾された時とそうでない時の変化が激しくて、演技もびっくりするほど上手とは言わないが、後半段々と格好良くなっていく。これは撮影中の半年に身長が133cmから137cmへ伸びた所為もあるかも知れない。ところが「形からだ。」と猩猩に「麒麟送子」として、いかにもなヒーローの装飾を施されるものの、これが実際に形だけだ。普通の剣と魔法の世界なら大事にされそうな聖剣も登場後すぐに鳥刺し妖女アギに折られるし、復活させても結局、親玉「加藤保憲」には通用しない。結局、彼は最終決着を付けるヒーローには成れないまま終わる。
(念のために言っておく。剣が日本刀でないことを揶揄するなら日本史を勉強し直しておくと良いと思う。それが『一本だたら』の伝承理解にも繋がる。)

 実は彼の役目はヒーローではなく、狂言廻しなのだ。妖怪を誘う旗印のようなモノだ。それはその名字にも現れている。

 「稲生」と「妖怪」にはつながりがある。「稲生物怪録<いのうもののけろく>」をご存じだろうか?「稲生物怪録」は稲生平太郎の口伝をまとめたものだが、本家本元でさえ、あの平田篤胤が魅せられて、まとめ直してバリエーションが多い(コピー機が無かったので写本したために変わっていくのもまた楽しい。)ので、自分も最初にどれを「観」たのか覚えていない。確か幼年向けの雑誌の絵物語だったと思う。この話は怪力の稲生平太郎が百物語を行った肝試しの後に、自宅にいろいろな化け物が訪れる(怪異が起こる。)こと事を書いたモノだ。

 まさに今回の映画は、この物語の稲生平太郎の周りに妖怪が集まってくるイメージを引き継いでいる。最後に形だけの「大戦争」を引き起こすわけだ。そういう記号「稲生」を知っていると名前を知って「はは~ん。」という感じになる。

 また、映画では離婚した母と父、姉は実は居なくても良い。鳥取の大天狗山の麓のあの場所に少年を設定するための小道具と言うのは言い過ぎだろうが、登場人物としては母の実家に住んでいる、じいさん以外の家族は居ても居なくても大勢に影響がない。シナリオ的には0点だ。

 この「じいちゃん」は漠然としたモノだが最後に明らかになる「小豆」の効用に関して、観賞者に関心づける意味はあるだろう。「小豆は体<みがら>に良えだ」はギャグだが、ちゃんと伏線の一部を担っている。菅原文太を配した理由も明白で、ネームバリューのある役者でないと、この台詞が様にならないからだ。もの凄く緩い「妖怪」の世界感を本当に良く醸し出している。

・魔除けの小豆

 「小豆」が魔除けになることは、知っている人は知っているだろう。小豆の赤い色、それから粒であることに意味がある。小豆自身は余り食べ方のない豆であって、赤飯とアンコにする以外はいくつかの豆料理があるくらいだろう。劇中では赤飯(劇中では「小豆飯」。)を食べたじいちゃんの家だけが襲われないことで、魔除けの効果は表現しているが、古来、粒の中に神が封じ込められていると信じられてきたことの名残である。従って潰れては意味がない(あんパンも「こしあん」でなく「粒あん」でなくては意味がない)。それから、赤米と赤飯とのつながりがどこまであるのかは確証がないが、古代米が赤米であったことから、それの再現のために赤飯を編み出したとされているのが通説のようだ。

 赤はいつからそう思われるようになったかは分からないが、色としての幅はあるモノの神社の「朱」などと同じ意味を持たされている。やはりこれも魔除けだ。

 そして、最後、ヨモツモノの溶鉱炉の中に一粒の小豆が紛れ込み大爆発が起こる。怨念渦巻くヨモツモノの怨霊と加藤保憲が合体せんとするときに、不純物が紛れたためにバランスが崩れて爆発したと解釈するのか、一粒でも十分ヨモツモノを壊滅させる威力があったとするのか(筆者は前者を押す。)描写だけでは難しいが、いずれにせよ、ヨモツモノによる加藤保憲の復讐は一旦打ち切られることになった。

・本物と偽物の区別

 この映画では妖怪は喧嘩レベル以上の戦いを基本的に挑まない。天狗や猩猩のように使命=存在する意味であるもの以外では川太郎、川姫、小豆洗い(逃げ損なっただけにも見える。)、一反木綿だけだ。今回、個人的に感心したのは妖怪会議に出てくる面々のなんと役立たずなことかという点だ。傘化け、ぬらりひょん、油すまし、塗り壁、雪女、轆轤首、一反木綿、一つ目小僧、小豆洗い、雲外鏡(これは役に立っていたが・・・。)本当にいるだけなのだ。いかにも妖怪らしい。

 妖怪には自然現象の怪異を説明するモノ、人などから展開されているモノと言った伝承を伴うモノ、創作、様々なモノが紛れている。

 付属書というか子供向けというか合同企画として発行された「写真で見る日本妖怪図鑑」<角川書店 ISBN:4048539019>は「妖怪を見るためには無理矢理見なくてはいけない」という水木しげるの弁を受けたモノになっている。エキストラ妖怪を含めた登場妖怪を名前とその簡単な説明を載せているファン垂涎のアイテムと言ったら過言だろうが、妖怪を強く嗜好していく本になった佐藤有文の「いちばんくわしい 日本妖怪図鑑」を思い出して楽しんだ。(佐藤有文の本は口絵が良い。)

 これを見ると今映画用に創作されたモノ(猿転蛮子など・・・ダジャレもいいとこ)、伝承のモノ、水木しげるモノなど様々な妖怪が写真で納められているのだが、キャプションも村上健司の悪のりが見えて非常に楽しい。

 しかし、創作に関しては何も今に始まったことではなく、鳥山石燕の時代にはすでに存在していたらしいことが最近よく分かってきた。だから或る括り<くくり>で学術的検証をするのも面白いが、通常は清濁併せ呑むというか、全てひっくるめて妖怪だぁで良いのかと少なくとも水木しげるが妖怪に認定してればいいかぐらいの軽い括りで良いのだ。

 これは偽物だとか本物だとか目くじら立てながら選別する方がおかしい。

 ただ、妖怪好きなら多少は区別を付けられた方が楽しみは多いので少し付け足しておく。

 実は紹介記事などでも分かってない、あるいは誤解を生じていたモノがあった。最後に出てくる荒俣宏扮する「山ン本五郎左衛門<さんもとごろうざえもん>」と京極夏彦扮する「神ン野悪五郎<じんのあくごろう>」(尤もオリジナルの神ン野悪五郎が匣の中に女を飼っているはずもないのだが。)を本作のオリジナル妖怪としていたモノがあったのだ。両名とも「稲生物怪録」に出てくる魔王なのだが・・・やはりマイナーなのだろうか。

 メインキャストで前がないのは、栗山千明演ずる「鳥刺し妖女アギ」か。モチーフは何かしら有りそうだが、荒俣氏のオリジナル妖怪である。あと、水木翁の妖怪大翁はオリジナルだろう。"わさーっ"と出てくる妖怪の中には出展不明もあるのだが、京極夏彦がこれらエキストラ妖怪に関しても一応名前を授けているらしいので、それらしくはなっている。

 加藤保憲については、日本先住民族の怨念、「帝都物語」の加藤の転生した姿らしい。安倍晴明の師匠筋の加茂保憲が元ネタの彼は今回は美形に転生している(笑)これが美形でなく嶋田のQちゃんのままだと最後のオチが笑えない。凄みが足りないが、今回はそこまで凄みは要らないだろう。じゃないと、アギが惚れそうにも思わないし。しかし、彼も映画だけではどこの誰だかさっぱり分からない。必要なのは怖くて強い敵。アギが惚れそうだと確信出来るモノだけなのでそれで良いのだが、これもまた映画としては違反事項かもしれない。

 モンスターデザインと妖怪デザインは複数居る、クレジットでは妖怪デザイン:井上淳哉/竹谷隆之、機怪デザイン:韮沢靖となっているが、川太郎などは京極夏彦がデザインを描いてヘソや乳首のないこと(両生類をイメージしたもの。)を但し書きを添えていたようなので、京極も妖怪デザインの手伝いレベルの作業はやっただろう。

 最初に言った通り、妖怪の図版上の意匠は我々が知っているモノと言えば半分以上が水木しげるを通してのモノだ。水木しげるは巧みにオリジナル(姿形だけオリジナルだったり、全部が創作だったり色々あるのでかなり難問ではある。)を混ぜて描いているので、今回抱き込むと言ったら行けないがデザインを使いやすいように原作チームに入れてしまったのはうまい手だ。一反木綿や塗り壁、砂掛け婆はそうだし、また、それ以外のモノの大半は鳥山石燕のものとなる。現時点で全て検証しているわけではないので、珍しいモノがあると少し嬉しい程度の楽しみ方で良いのかなと思っている。(遠野のカッパは赤いなぁとかね。)

・件で始まり麒麟で終わる

 これはもうそのものなのだが、件<くだん>(人面の牛の化け物)が予言を告げて、この混乱が始まり、平和が戻った空を麒麟が駆けていく括りだ。

 「件」は災厄の訪れを告げ、そのまま死んでしまう化け物で、逆ミノタウロスと言うべき姿。小松左京が短編を書いていて驚いた事がある。そして麒麟。麒麟は知っているようであまり知られていない。聖人の出現する前に現れるというのが辞書に載っている意味だったと思うが、伝承では平和のシンボルとして平和が訪れたときその空を駆けるというものがある。「麒麟送子」というのは麒麟を天かけさせられる状況にする者という意味だろう。水木版「妖怪大戦争」では一緒に戦っているが、映画版の方が正しい現れ方だろう。劇中では「"麒麟"一番搾り」を飲むと妖怪が見えるシーンがあるが、この所為で飲めない人でも飲みたくなってしまう罠がある(笑)

 これを上回る妖怪シーンの始まりと終わりは、「覚<さとり>」と「白澤<はくたく>」くらいかなぁ?

 こうして見ていると結局、絵解きのようなもの以外、この映画には何もないような気がする。笑いはあるモノのそれがギャグから来ているものもあれば、妖怪の本質から発露するものもあるが、やはりサブなのだと思う。しかも稲生タダシは大して変わらなかったのだから、テーマめいた「真っ白な嘘」はついてもつかなくても話には何にも関係ないし、逆に、これらが映画の体裁を整えるだけの「飾り」だというのがよく見えてくる。あれだけの大被害が起きた東京の後日談(最後に佐田とタダシが倒れている場所はきちんと車が路肩に止まっていたことを印象づけるシーンがある。これは人的被害はなかったんだよというサインらしい。)もなく、一時の夢「妖怪喧嘩祭」を見ることだけがこの映画の目的だということがよく分かる。もしメッセージがあるなら妖怪大翁のとってつけたような一言だけだ。

 エンドロールを見送りながら、私はまだこの「祭」が終わって欲しくなかった。妖怪が見えるうれしさもだが、妖怪を感じられる自分はまだ幸せの中に居るのだなぁとつくづく感じたからだ。

 今日紹介したことはほんの一部だ。まだまだ雪女一つでも1時間は語ってしまいそうなくらいだ。でも、少しでも興味を持って妖怪の知識を蓄えてもう一度見てもらえたら、そこにはきっと見えなかったモノが見えて来るに違いない。

 そのときはまた、共に祭の中に身を投じて楽しめたらと思っている。

 2005年は妖怪モチーフの有名映画が4作もあるというある意味、当たり年だったが、それぞれ動員も良いようだ。ただ、「妖怪」という観点から見るとやはりこの「妖怪大戦争」がどうしても一番良いように思う。

 さて残る一つ「奇談」(諸星大二郎作『生命の木』)はどうかなぁ。

 そしてDVD。そろそろ発表されるようだ。

2005.10.16

ウルトラマンマックス第16話「わたしはだあれ?」

 今回もウルトラマンマックスは面白かった。

 何が違うというのか。些末な違いを埋めていく作業、たしかに簡単には出来ない差はある。別に監督業で無くともそれはあるのだが、そういうコツ、ノウハウどうやったら伝わるのかなぁ。業界全体で越えていかないと、この分野、ホントに単なるコマーシャルに過ぎなくなっちまうし、年寄りが増える、人口が減っていく中で、頭打ちになるのは見えてるじゃないかとも思うのだが。

 さて、本編。

 明示的には語られないが3つの隕石(宇宙化猫)は最初からあの形であったのではなくて、落下時に猫と合体してしまったのかな?耳のあるクロまでは良いが後足が一本だけ飛び出ていた意匠はそういうシグナルだろうか。有機生命体の記憶を吸い取るのか有機生命体の記憶を混乱させるような電磁波の吸収を行うのか。ただ、そういうことを解き明かすのは必ずしもというか「ウルトラマン」では求められていない。特にギャグ編だし、想像の範囲でかまわないが尺が足りないかな(笑)

 難点は基本的に徹底的に笑うように作られているにもかかわらず、隊員達の行動が通常版と大差なく見えてしまうのは如何に通常版の隊員がへっぽこなのかと思われたところか。

 笑いのツボは分かりやすく作られてるし、オタク的にもカレー皿とスプーンが用意されていてニヤリとさせるなど分かっている。

 そういう笑いにまみれた中でも、絵作りは出来ている。三池監督は「絵作り」なんだなと思った。説得力のある絵作り。冒頭の失われていく記憶を予感させるシーン。引きのマンションをあの構図で撮るとか、基地内での知れっとした配置、UDF基地の前に立つウルトラマンマックスの対比とか他人がやれそうでやれない構図をさっと描く。そういうのはセンス以外の何ものでもない。

 来週からどうなるのか。別な点が心配だ。

 自分の趣味では無いが、「デジモン」や「おジャ魔女どれみ」で細田守監督が担当するとその前後で全体的に質が向上すると言うか細田チックになるといったことがあった。これは東映動画で行われる試写を見た所為だと思われるわけだが、そういうことは特撮では起こらないんだろうか?

 ガメラの樋口特技監督ショック以来テレビ特撮に限らず映画でも一時的に向上心が強く感じられたのももう懐かしい。

 もっとも、先週、今週と三池監督の回は特撮もかなり金が掛かってる。CGも多いし(普段とは違い、バンク的でない動きだし)、先週は怪獣が5形態に変化、今週はプールで特撮だった。確かに毎回出来ないだろうし、仮にいつもの人達がこの予算が与えられても越えることは出来ないだろう。

 演技が下手な満島ひかりに話を引っ張らせるなどかなり冒険だったように思うが、上手くまとまったし、彼女自身もこの一作でかなりレベルアップしたのでは?

 それから、今2作では、マックスギャラクシーは使われなかった意図的に廃したのか、当初制作に入る頃と順序が入れ替わってしまったのか。それを指摘しておこう。

 ただ、前作ネクサスとは違って作風をいじってもかまわないのがマックスの強みだろう。コンプリートパッケージのモノも先を見てみたい気はするが、まず越えていくことだそう思った三池監督2作だった。

2005.10.11

FDの作者出射厚氏死去

 「FD」と言って何を思い出すだろうか?フロッピーディスクやフロッピードライブではない。

 「ファイル&ディレクトリー」その名を冠したDOS時代の有名ファイラーのことだ。その作者、出射氏が亡くなっていたそうだ。

 元記事
 URL= http://slashdot.jp/article.pl?sid=05/10/09/0047237&topic=1

 スラッシュドットで見つけた記事なのだが、非常に残念に思った。未だにファイラーとしてはエクスプローラや他のWin用のモノよりもFDの方が使いやすいと思う。PC-9801の時代はフロッピーにコンパクトにエディタとFEPとFDとLHAを入れて持ち歩けばたいていのことは解決出来てたからね。なまじっか肥大化したから、つまらないことも多くなったような気がするし。と言うか、このセットがなければパソコンペーペーの頃は仕事も渡り歩けなかったかも。

 出射さん本当にありがとう。ご冥福をお祈りして感謝の言葉に代えます。

2005.10.08

ウルトラマンマックス第15話「第三番惑星の奇跡」

 さて、この話、全30話の予定なのでちょうど真ん中になる。

 前回、前々回は長澤奈央フィーチャーして私の大好きなゼットン(造形はOK!)とキングジョーを蔑ろにした酷い出来だった。すでに上原正三には期待していないし、スーパー戦隊とメタルヒーローの方向性を作った人物としての力量は認めているが、古巣の「ウルトラ」では大したことがない話が多いなぁ。

 さて、そんな状況の中、とりあえずなんだけど、三池監督は「分かってる人」に認定だ。少なくとも絵作りに関しては申し分ない。今回はいつもと意図的に色が変えてあった。昼光では少し浅い渋めの色にしてあった。色だけでなくカット割りも良いし。それが最後の怪獣の変貌に影響がある。

 とにかく今朝は「ウルトラマンマックスでこんな話が見られるとは思わなかった」と言う気持ちが先に来た。いちいち違う。些末な違いばかりのような気がするがそれをきっちりするのが力量なのだろう。

 ストーリーはありがち、最終の選択として災厄を避けるしかなかったことと避ける手段に少女の願いが絡んでいるのもありがちなのだが、映像でそれを押していける力がある。他の人間が撮ったらこうなったかどうかは分からない。マックスが作風の制限がゆるいのが幸いしているのだろう。その代わり、コントロール来なかったら、とんでもない駄作が出来る可能性もある。むしろ酷い絵面になっただろう。

 ストーリーを追うとポロポロと粗が見える。見えるが、それを黙らせる絵作りが出来ている。

 惜しいのはこのクオリティが、今回だけだと言うこと。(全編こうだと見る側にも作る側にも困ることも色々あるわけだが、せめて前後編くらいのボリュームでも良かった。)それに他の人が「分かってない」ことだろうか。

 「マックス」を見て、やはりガメラは樋口特技監督の功績が大きいことを感じた。もっともそのバランスもあるのだろうが。金子監督だけでは及第点を越えられない。

 CBC公式ホームページでは三池崇史監督初演出と書いてある。次週のギャグ編も担当のようだが、今回ほどの衝撃はあるだろうか?お笑いが上手いのは分かるのだが、ウルトラの中で私がそれを許容出来るかどうかだな。さらに実相寺監督が今後2本登板(内一本はメトロン星人登場編)で大変心配なのだ。次回の完成度次第ではもう一回くらい単独の感想を上げるかもしれない。

 まだ、捨てたもんじゃないな。

 ちなみに今回の秀逸な演技が光る子役は佐々木麻緒。三池監督作品の「妖怪大戦争」でスネコスリの声を当てていた子で、三池監督の秘蔵っ子だそうだ。あまり上手すぎて将来が心配だ。(こういう上手い子は結局はなぜか残れないんだよな。変な芸能界。)

 自分の方は英気を養って、鋭意努力中(笑)

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