ココログのメンテが長大になったので公開が遅れてしまった。
パクリは無くならない。それは良く分かる。
学校のように公っぽいシステムでの知の伝達経路を無い、特に職人芸的、芸術的ものは、「よく師匠から盗んでナンボ」という言うような逸話があるように、パクってこそ伝達されるものだから、仕方ない部分があると思う。世界で類を見ないほど浸透している日本のマンガも、そのしがらみを抜けていけない。と言うより、無ければここまで発展はしなかったはずだ。ところが本来ならプロセス、手段系の事に限ってパクリが許されるのであれば著作権保護期間延長論者も納得するのだろうが、結果として出来た物も似てきてしまう。それは必然なのだ。
ストーリーは流石に言い訳しにくいだろうが・・・
従ってパクリに対して、制限がきつくなれば成るほど、この伝達が阻害され、新たな物をこの世に出す機運は低くなっていくだろう。
だとすれば、やはり無制限の禁止は、自分には認められない事だ。でも、著作者と著作者が扶養している人に対しての恩恵は認めてやりたい。出来た物だけを搾取するようなことが噴飯物であるのは分かってくれるだろう。
最近の著作権管理団体ってのはその出来た物だけを搾取するための団体に見えてしまうのだ。
さて、この著作権侵害絡みでアニメ、マンガ関連で、最近、2件の話があった。
その内の1つ「ゲド戦記」の件が決着した?らしい。
日刊スポーツの記事
URL= http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20061206-126496.html
「ゲド戦記」の「テルーの唄」のパクリ騒動は一応の決着を見たが、この判断を最初からしていたのと今頃出したのでは印象が違う。すでに著作権切れの作品「こころ」実際に訴訟が起こったりはしない。だが、引用も多いし、なんだかんだで読んだことがある人も多いのではないだろうか?
特に、詩のような短い文では(俳句や短歌では更に顕著だろうけれども)部分的にパクったつもりでも、実はほぼ全部というようなことがありうるし、今回のケースはまさにそんな感じだ。
もう一つは松本零士の件だ。「銀河鉄道999」から星野鉄郎のセリフから槇原敬之がパクったと言われている。2行程度の長さの文だ。ここに書くとまた面倒なので書かない。
これが、松本零士の心情でモットーのような物であり、講演会で度々使っていることばだという。
これも著作権法から見れば立件は難しいだろう。
何しろ、松本零士は槇原敬之が知っていることを証明しなくてはいけない。見てないことの証明は「悪魔の証明」になるので、困難というか無理だが、これもものすごく困難なことのように思う。20年以上前に、映画やテレビでアニメを放映していた時期の原作で有れば、ファンは多かったし、見た人も多いと思うが、続編であるこの部分は、ビッグコミックゴールドで連載、雑誌が休刊してしまった為にビッグコミックに移行し、その後、インターネット連載という形を取って(それでも現在休載中)、書きためた物を単行本化した物で、いったい何部出て、様々な人たちに目に触れたというのだろう?それとも講演会に槇原敬之が来ていたのだろうか?インターネットに公開していれば無限だという言い方も出来なくはないが、逐一視聴を確認しているならいざ知らずそんな体裁ではないんだから、どれも証明できまい。
チャンと調べられなければ後は公知かどうかということだ。残念ながら今の松本零士にそれほどの魅力はない。
それにこの件にはもう一つ気持ちの悪いことがある。
松本零士の「男同士なんだから頭を下げて貰えれば・・・」(不正確)の件である。見ていないと主張しているのに頭を下げることは出来ないだろうし、こんな考え方をマンガの中だけでなく現代社会で当人がしていることに関して、ものすごく気持ちが悪いのだ。
それに、槇原敬之ってたしか”彼”がいたことがあったはず。それを知ってか知らずか。逆襲に出た槇原敬之に松本零士側のコンタクトがあったという記事はニュースでは見かけない。一度上げた拳をコソッと引っ込めることこそ男らしくないのではないだろうか?
自分の主義主張を掲げて出たならチャンとケジメを付けて貰いたいモノだ。
それにしても知名度はある物の今のこの情けなさは何だろう。漫画家なら作品で、うならせて欲しい物だが。
今日話したのはコンテンツコピーなどとはまた別の話だ。
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