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2006.12.10

「硫黄島からの手紙」インプレッション

 二部作には二部作の意味がある。どちらかだけでは片手落ちだと思った。

 史実との整合がどうだとかオーパーツや航空機、銃器の確認はミリタリーや歴史のマニアに任せるしかない。自分は感想に終始しよう。

 映画の流れは若干、栗林がヒロイックな扱いなのが気になるが、全体のテーマとトーンは「父親たちの星条旗」と変わらない。あれだけの攻防を描き、陰惨なシーンがあるにもかかわらず淡々と見ている第三者の目で描き出されていく。もう一人の主人公である西郷役の二宮和也は独特の雰囲気を醸し出して、予想超えて遙かに良かった。赤紙の受け渡しシーン、ラストの枯れた微笑み、印象的なシーンが上手く行っていた。

 どちらも戦争の発端や結末を描いたわけでない。訳も分からず、戦争にかり出され、互いによく知りもしないで殺し合い、ただただ疲弊し消えていくそんな人々を描いている。観ていれば、一部の懐を肥やすだけの戦いに、何万の死傷者が累々と並んでいくその理不尽な有様に憤りを覚えるだろう。

 そして、この二部作はアメリカ向けのものだ。アメリカ国民の国家や世間からの理不尽な扱いを「英雄」として扱われながら、人種差別を受け富裕層のちっぽけな満足感を潤すだけの扱いを受け続けるインディアン出身の男、「英雄」ブームがあっという間に廃れ再就職もままならない元英雄を通して語る。

 そして「父親たちの星条旗」で現在の我々が抱く北朝鮮に近しいイメージで「大日本帝国」をとらえている様を描き、一方、「硫黄島からの手紙」では必ずしもそういう人間ばかりではなかったこと、同じ苦しみ、悲しみをたたえていたことを伝える。これは誰しも同じように悲しみをたたえてしまう物が「戦争」なのだと言いたいのだと思うのだ。

 戦争の一部を切り取ることで、もちろん戦争を推し進める独裁者や施政者に対する憤りもあるのだろうけれども、もっと根元的な「走り出した戦争というシステム」の愚かしい造り、止められなさを描こうとしているのではないかと思った。だから「戦争を始めてはいけない」のだと。

 もちろん、戦争がいけないことだというのは、多分、誰もが思っていることなのだ。それに異論を挟む人はいないと信じている。しかし、人間は愚かしくも争い事をやめることができない。それが良い面に働いているだけなら、進歩だったり、切磋琢磨だったりするのだろうけど、人間のモチベーションは必ずしも良質とはいえないだろうから、戦争のような悪しき争いは無くならないかのだろう。しかし、そこであきらめず、こういう映画を通して、あるいはほかの手段でも良いのだけれども、いくらかその回避率を上げることができるなら、その行為は無駄でも無意味でもないはずなのだ。

 重ねていうが、この二つの映画はアメリカ向けのものだ。しかし、当事者だった日本の人たちにも意味があるものだ。もしかしたら普遍的なテーマも語られている。できるなら両方を見て、もう一度自らに問い直してほしい。反面教師が実行可能なのは20%の人しかいないと聞いたことがある。自分が痛まなければ学ばない者がたとえ80%いるとしても、疑似体験的に知ることには意味があるのではないかと思うのだ。説教くさい話なら出来る人はいるかも知れないがそんな者には多くの人は耳を傾けない。残念なことにエンターテーメントでこんな映画を作れる資質はまだ日本にはないと思う。

 なお、2作品はいくつか交錯するシーンがいくつかあるが、時間経過を表す物以外は、明瞭に意図しているわけでは無いように思った。

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