(「音」を題材にした某同人誌に安史和尚が寄稿した文)
映画で洋物は出来るだけ字幕版を見るという不文律みたいな物が、我々の年代以前にはあったと思う。それは客寄せ目当ての素人の様な声優を使った吹き替え版が酷い出来だったりすることもあったろうが、それよりも外国人が日本語を話すというのがどうもなじめなかったからかも知れない。
この辺の慣習は、海外だと大きく違う。大方の国は字幕でなく吹き替え版で楽しむ事が多いようだ。逆に香港映画は元々、吹き替えて公開する物だったので意外に最近まで役者本人の声でないのが当たり前だったのだけれども、世界のマーケットに出すような作品は、そんなことは無くなっている。と言ったことも分かってくる。
そんなものなのだ。本来は意味がないこだわりかも知れない。
それにアニメなどは、声が上手くあって居れば、吹き替えでなく”日本語版”として出せば何の違和感もない。私の大好きな「Mr.インクレディブル」もオリジナル版で字幕を追っているよりも、日本人の声で当てている方がしっくり来て、楽しいと思う。字幕では説明仕切れないものが多々あるからだ。訳外の部分はエンターテイメントの映画なら多少はヒアリングできるが、満喫するにはほど遠いからだ。
でも、まだ実写は吹き替え版を選べない。それは阻害要因が上記のようなことだけではないからだ。
かつて荻昌弘という映画評論家がいた。若くして(とは言っても60には成っていたと思うが)亡くなったのだけれど、この人がコメントを付けていたTBSの「月曜ロードショー」はテレビの映画番組<プログラム>のなかでも格が淀川長治(故人)の物と双璧を成すほどのものだったと思う。TVの映画番組なんて流す映画が何かと言うことはあるが、基本的には解説の質で決まるものだ。昨今はそれすらも省いて、逃げているケースも多い。当時はまだ、私も幼かったし、他の人たちも今思えば凄いのだけれども、それを押しのけて映画番組と言えば「月曜ロードショー」という印象を残している。
荻は淀川と違ってあまり隠さずに映画を批判するタイプだったので、まぁ威厳がありそうに見えていただけかも知れない。知れないのだが、一つだけ良く覚えている解説があり、それが私の荻評を決定づけていると思う。
「ポセイドンアドベンチャー」昨年、リメイク版が公開された船舶パニック映画の代表的な作品だ。この映画は、まぁ筋は普通だが、独特の大作感、やはりどうやって助かるのかというワクワク感があって、困難に紆余曲折し、最後に進退窮まったかと思った時に助けられるという感動的な終わりを迎える名作だ。
最後は船底部に閉じこめられ(但し、船は逆さになっているので実質最上部になっている)もう移動できないと観念した時に、外部から船底を破って助けられるのだが、そこの演出の秘密を荻昌弘が番組最後に付け加えたのだ。
詳しくは覚えていないが、こんな内容だった。
「今日は皆さんに吹き替え版をご覧になって頂きましたが、オリジナル版では最後のシーンの船底をたたく音に気づく瞬間のずーっと以前から、小さな音で船底をたたく音が入っているのです。こういう心配りが、物語に厚みを加えていると思います。もし機会がありましたら是非オリジナル音声の物もご覧になって下さい」
私はこのことが気になっていた。そして随分経ってから確認することができた。実際その通りだったのを確認できて、感激した。
演出として一見、無駄に思えるのだが、気づいた人にはご都合主義ではないリアリティが生まれるような「心配り」がしてあることの意味は限りなく深い気がしたのだ。これこそが作劇の醍醐味ではないのかと。
当時は吹き替え用音声と効果音トラックの問題など有ったのでこのようなことになっただけで、今はそんなことはないのかも知れない。だが、その事を知った所為で、劇場公開時に私は未だに洋物の吹き替え版は選べない。業が深いというか呪いが深いというか。
荻昌弘はそういう気づきを与えてくれた人と言うことで、私の中に刻まれている。そして私が映画を見る時の一つの礎にもなっていると思うのだ。
今更ながら感謝の念を現したい。
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