「お別れの会」と言う儀式
報道では「三沢光晴お別れの会」にやってきたのは2万5千人ほどだそうだ。列は最長で勝どき橋に至ったという。(実際は晴海大橋を渡りきる直前だったらしい)午前中に所用があって14:00頃に着いた。そして既に市場前駅まで伸びていた列に並んだ、列が動き出したときには、新豊洲の横から晴海大橋の真ん中ほどには列が達していた。
当日は蒸し蒸しして、日陰もなく、ただ待っているだけでも辛かったが、幸い、帽子を被り、水を持ち歩く癖が付いていたので、水分補給はなど問題なかった。それにしてもかなり歩き馴れているつもりだが、このダラダラ動きは応えた。
自分だけではない老若男女、身体に障がいをお持ちの方も、子供や赤ん坊までも並んでいた。子供や赤ん坊はいざ知らず、その他の人は自分の意志で並んでいるのだ。
服装は平服が多かったが喪服やスーツ姿の人もちらちら。自分もだったが、緑を何かかしらで身につけている人が多かった。
言い方が悪いが、この列はある意味苦行である。
しかし、この苦しさは自分の中の悲しみを少し癒してくれる。三沢の大変さを少し分かち合えたような気がするからだ。
馬場の時も鶴田の時もお別れの会には駆けつけた。でも、ここまで切なかったのは三沢が最初で最後だろう。それだけ特別なのだ。
ディファには列が動き出してから2時間ちょっとで入れた。
会場にはいると週プロの追悼号の表紙に使われた写真の全身版が緑のマットの向こうに見えた。
「格好良いなぁ」
俺自身はショートガウンの頃の三沢も好きだったがこのガウンのヤツも良い。
献花する人から「三沢!」「ありがとう!」「お疲れ様!」口々に声を上げるのが聞こえる。
出口で待っていた小橋は真っ直ぐに目を見て挨拶をしていた。本当にまじめな男だ。
だからこそ体を大事にして欲しい。もし秋山や小橋に何かあればファンはもうガタガタだ。そうディファを後にしながら思った。
それに、たった一人でこれだけの人間を集められるスーパースターをプロレスは失った。とりわけノアにとってこれほどの打撃はないだろう。
しかし、逆に考えればこれだけのファンがまだ居たのだ。プロレスの存在意義はある。
長くファンで居たから、どうプロレスが変わったのか知ることが出来た。長くファンで居たから、その中心に三沢がいたことを共有できた。
だからこれからもファンも団体も留まらずに、変わっていって新しい楽しさを見せ続けて欲しいと、きっとそれが三沢の願っていることだろうと思うのだ。
「三沢ありがとう!」
この儀式を経て僕らは君の残した道の先に行く。
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